其の一はこちら

『先代旧事本紀大成経』にある塩釜神とは長髄彦という記述

『謎の第二津軽出雲王朝』では『先代旧事本紀大成経』にある塩釜神についての記述が紹介されている。塩釜神を長髄彦と明記している部分についてである。

(八日)長髄彦は(天孫族に)襲はれて大倭国を捨て、陸奥国に往きし故に中国(やまと)を順伏り。長髄彦神は、元火神の尸(みがら)に化(ち)る嶽(たけ)山祇神の児として陸奥国に在り、塩を焼いて民に施し、后に椎桜宮(神功皇后)の御代に、住吉神の催促に依って、韓の軍の先に前(すすん)で能く数百の異(あだし)神、怨(あだしき)ぞ撃ち玉えり。
其の長高く、其の力も強く、其の威も巍(おびただし)く、其の気も猛(はげし)かりし故に、洲輪(諏訪)の神(タテミナカタの命)と倶(とも)に軍船を司りて功有り、仍(よつ)て陸奥の鎮守と為し、今の塩釜神是なり。

この内容については私も『日本列島秘史』執筆時には知っており、触れておきたいことではあったが、諸事情により含めることができなかった。
『先代旧事本紀大成経』は神道家・永野采女と僧 ・潮音道海によって公開された、聖徳太子によって編纂されたと伝えられる教典だが、江戸時代に本居宣長や水戸光圀が偽書と断定した。偽書とする研究者も多いものであるが、一方でその資料的価値を認める研究者も居る。内容の真偽は定かではないだろうが、この記述があることは確かである。
そして、大本教本部には、塩釜神社が建てられている。拙著でも出口王仁三郎はサンカ出身説があることについて触れたが、これは出雲と関わりの深いサンカ出身である王仁三郎が、塩釜神の正体を長髄彦と知っていたが故のことであったのかもしれない。

鹽竈神社と出雲の深い関り

吉田はこれに続けて、江戸時代には塩釜(鹽竈)神社の祭神にオオクニヌシの子、アジスヒタカヒコネを当てたことがあったことを紹介している。『謎の第二津軽出雲王朝』は未完であるため、最終的にどのような形にまとめる予定であったかはわからない。しかし、この題からアラハバキ族や長髄彦と出雲族の深い関係についてを掘り下げるものであったということは伝わってくる。

『日本列島秘史』にも書いておきたかったことの一つだったが、鹽竈神社の元宮司・押木耿介氏による解説書『鹽竈神社(学生社 日本の神社シリーズ)』にも、江戸時代よりも更に古い時代には大己貴命が主祭神であったことが記されており、アジスヒタカヒコネよりもより直接的に鹽竈神社と出雲との関係を示している。

また、吉田は延喜式名神大社・志波彦神社の縁起にある「岐神、先に冠川上に降る。因て先に祠を立て、神降明神と云ひて、塩釜の末社とす。後、冠川明神という」という記述を紹介し、鹽竈神社隣、志波彦神社の本当の祭神は出雲の主神クナトの大神(岐神)であると説明している。冠川とは現在の宮城県仙台市と多賀城市を流れる七北田川の旧称である。公に志波彦神社の祭神とされている志波彦の神は、鹽竈の神に協力した神とされている。

私は、鹽竈神社の境内に神龍社があることにも注目したい。神龍社の詳細な由緒は不明だが、この神龍社の存在も龍蛇信仰を持つ出雲族との関係を示すものと考えられる。

多賀城周辺が荒吐族の要地であったことの傍証

『謎の第二津軽出雲王朝』では『東日流外三群誌』にある、長髄彦の滅後に安日彦(長髄彦の兄)が荒吐族を挙動し倭国に攻め入り、奥州の権は、雪の及ぶところを荒吐族の領地として倭国側へ交渉後和議し、荒吐族の要地を一時、宮城県の多賀城付近に移したという記述を紹介している。

多賀城周辺が荒吐族の要地であったが故、長髄彦を祭神とする鹽竈神社が建てられたのではないだろうか。現在の宮城県多賀城市は鹽竈神社の在る塩竈市のすぐ隣で、多賀城市の荒脛巾神社と鹽竈神社は近いところにある。荒脛巾神社も鹽竈神社も、この周辺が荒吐族の要地であったことの名残りと考えられる。さらに、長髄彦が富家の末裔であったため、鹽竈神社の祭神に大己貴命が当てられたこともあったのではないか。

さらに、荒脛巾神社のすぐ近くには陸奥総社宮も在る。総社とは、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った神社の名称である。陸奥総社宮は、平安時代中期に編集された「延喜式」に記載のある陸奥国の延喜式内社(えんぎしきないしゃ)百社を祭る神社である。陸奥総社宮縁起によれば、鹽竈神社と陰陽ペアの関係にあるという。この神社の祭神の中にはアラハバキノ大神威、ツボケノ大神威が名を連ねている。アラハバキを祀る神社は東北〜関東を中心にある程度の数が存在するが、ツボケの名が付く神を祀っている神社は珍しい。これも、この地が荒吐族の要地であったことの傍証と考えることができる。

また、鹽竈神社の付近には山神を祀る「山の神神社」と「香津山神社」という二つの神社が在る。山神は多くの場合オオヤマツミを指すが、他にカナヤマヒコ・カナヤマヒメであったり、御神体が道祖神であったりと、山神が意味するものは様々である。先に紹介した『先代旧事本紀大成経』の記述では長髄彦は「元火神の尸(みがら)に化(ち)る嶽(たけ)山祇神の児」とある。嶽山祇神とは聞いたことが無かった名前だが『山口十二所権現并八天狗神鎮坐縁起』に、イザナギがカグツチを斬った際に誕生したという説明があるのを見つけた。イザナギがカグツチを斬った際に誕生したというエピソードはオオヤマツミと同じであり、火の神であるカグツチから生まれた火の性質を持つ神であることが窺える。山神を祀る「山の神神社」と「香津山神社」は長髄彦が嶽山祇神の児とされていることに関係して建てられたのかもしれない。この近くにはカグツチを祀る愛宕神社も在る。さらに、鹽竈大神の従属の神である青木神を祀る青木神社もすぐ近くに在り、その横の白坂観音堂には雄石という男根型道祖神も建てられている。
三角寛の『サンカ社会の研究』にはサンカにオオヤマツミの神楽が伝えられていたという話がある。出雲と関係の深いサンカと、出雲系である長髄彦、これらのことを考えれば、やはり「山の神神社」「香津山神社」と道祖神も、長髄彦と荒吐族と関わりのあるものと考えることができる。
今年の正月にこの周辺を歩き撮影してきたので、その画像も掲載しておく。

山の神神社
山の神神社
香津山神社
香津山神社
香津山神社の御神体
香津山神社の御神体
白坂観音堂の雄石
白坂観音堂の雄石

其の三へ続く〜