長髄彦の末裔、矢追日聖の伝える長髄彦像

拙著『日本列島秘史』では、出雲と東北地方、津軽の関係についての論考も記した。しかし、斎木雲州氏による「日本書紀の書かれている冨ノ長脛彦とは大彦のこと」という説についての考察は、書き切れなかったところもあり、いずれ別の機会に書き記しておこうと考えていた。記紀における長髄彦と大彦では時代が違っている。これをどのように捕らえるべきかである。

そんな折、故・吉田大洋の遺稿『謎の第二津軽出雲王朝』を含む著述集がヒカルランドより出版された。出雲王家の口伝を吉田へ伝えた富當雄も『東日流外三郡誌』やアラハバキについて言及していた。ならば、吉田がそれらについて関心を持っていなかったとは思えないが、そうしたテーマについての著作が出されてこなかったことを不思議に思っていた。しかし、それは発表されていなかったが、やはり書き進めてはいたのだった。本作は未完の状態で出版されたが、それでも注目に値する内容が多く含まれている。中でも奈良市中町、通称「紫陽花邑」の主で、長髄彦の末裔である矢追日聖(本名、隆家)が伝える「ナガスネ彦は、ナガソネ村のスメラミコトという意味ですから、数代にわたって何人もいました」という情報は私にとって非常に興味深いものだった(山岡荘八監修『紫陽花邑』収録の内容を紹介)。つまり、長髄彦は個人名ではなく役職名のようなものであったという。そして長髄彦は日本書紀にあるように饒速日に殺されたのではなく、自害したのだという。その理由はこのようなものである。天啓を拝した長髄彦は神武天皇(狭野命)側へ条件付き(狭野命は正妃を大倭から迎える、など)講和を申し入れたところ、所領(長曽根邑)の人々から反感を買った。そのため、人々へ「神慮の深遠なるを悟り、我が死をもって意義あらしめよ」と伝言し、自決したのだという。そして講和条約は厳守され、出雲系のヒメタタライスズ姫が神武天皇の正妃となった。

富家の伝承では長髄彦は出雲系である。私は『日本列島秘史』で、富家の伝承にある長髄彦は神武に大和をゆずって出雲に退きそこで他界したという内容から、親出雲系の北陸に渡ってから東北に逃れたという推論を記した。富家の伝承における出雲とは現代の出雲よりもずっと広範囲であり、長髄彦が退いた場所も現代の出雲地方ではない可能性がある。

司馬遼太郎の長髄彦出雲系説

他に長髄彦を出雲系と主張した人物としては、司馬遼太郎は有名である。吉田は『謎の第二津軽王朝』の中で司馬遼太郎の長髄彦出雲系説の裏付けとして、江戸時代末期から明治時代にかけての系譜研究家・国学者である鈴木真年の『日本事物原始』にある「長髄彦は事代主の子」という説を取り上げている。この『日本事物原始』にある説の出典詳細までは載せられていないので、いずれ確かめてみたい。
司馬遼太郎はいくつかの著作で長髄彦を出雲系と書いている。富當雄についても触れられている『生きている出雲王朝』の中で「滝川政次郎博士によれば、この三輪山を中心に出雲の政庁があったという。神武天皇の好敵手であった長髄彦も出雲民族の土酋の一人であった」と記している。文脈からすると、司馬は長髄彦の所領も出雲系であったことから、長髄彦を出雲系としていることが伺える。

「出雲国」というのは、明治以前の分国で、いまの島根県出雲地方をさす地理的名称だが、しかし古代にあってはイヅモとは単に地理的名称のみであったかどうかは疑わしい。種族名であったにちがいない。さらに古代出雲族の活躍の中心が、いまの島根県でなくむしろ大和であったということも、ほぼ大方の賛同を得るであろう。(司馬遼太郎エッセイ『竹内街道』)

司馬遼太郎は作家であり、アカデミックな領域に属する研究者ではない。しかし司馬が「ほぼ大方の賛同を得るであろう」と記しているように、確かに古代出雲族と大和の深い関係を指摘する研究者が多いのは事実である。その長髄彦はその大和の有力者であったのだからということで、長髄彦を出雲系と見ているのであろう。

私は『日本列島秘史』にて、富家の伝承にある長髄彦は出雲で亡くなったという内容から、親出雲系の東北の地に逃れたという推論を記した。しかし、長髄彦が個人名ではなく役職名であったのなら、近畿で亡くなった長髄彦も、東北へ逃れた長髄彦もどちらも存在したと考えることもできるのである。

司馬遼太郎は、エッセイ『穴居人』の中で、自身が幼年期を過ごした奈良県の竹内村(現在の葛城市竹内)の伝承では、長髄彦の墳墓がここにあるとされているという話を紹介している。司馬自身はこの話については疑いを持っているようだが、伝承があるということは確かのようだ。

この墳墓が自決した長髄彦のものであるかはわからないが、大和から逃れた長髄彦は居たのかもしれない。大和で亡くなった長髄彦はやはり存在したことを示していると考えることができる。

其の二へ続く〜