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オオナムチの津軽降臨伝承

津軽と出雲の関連に関する資料としては、『日本列島秘史』やこれまでに紹介した情報のほかに『岩木山縁起(修験道史料集 1 東日本編 山岳宗教史研究叢書に原文掲載)』と『秀真伝』にオオナムチが津軽に降臨したという伝承がある。

小舘衷三『岩木山の山岳信仰』には『岩木山縁起』にある該当箇所の意訳文がある。

〜開国大己貴命(大国主命-顕国魂命-岩木山神社の主神)が津軽に来て土地の豪族と結びついて土地を経営した話の中に、津軽は土地が肥えていて180人の子供を遊ばせるにいいところだ、と見え、田光の竜女が献上した玉を岩木山に祭り、さらに夫婦になったこの二神を岩木山頂に祭って磐椅宮と称した〜

『秀真伝』にあるオオナムチの津軽降臨の内容はこのようなものである。オオナムチは出雲でスクナヒコナと協力し合い豊かで平和な国造りを進めていたが、オオナムチに謀反の嫌疑をかけたタカミムスビ(高皇産霊)の勅命により、出雲へ遣わされたフツヌシ(経津主)とタケミカヅチ(武甕槌)に出雲からの退去を迫られた。そしてオオナムチはアマテル神の詔のりにより国替えとなり、賜った津軽・阿曾辺(アソベ)の太元宮(ウモトミヤ)へ配下の百八十神を率いて降り立ち、再び豊かな国造りを成し遂げた。

オオナムチが、勅によって遣わされた経津主と武甕槌によって国譲りを迫られた点は記紀と同じだが、その後、津軽へ移動したという点は記紀とは異なる。

また『謎の津軽第二出雲王朝』で紹介されている『高山神社由緒書』は、『岩木山縁起』とも『秀真伝』とも関連があるように思える内容である。

我が津軽文化の流注は出雲地方に発祥し云々(中略)。高山神社附近の開創は、有史以前の土器時代にありといえども、有史以来、神武帝の御字、出雲系に出でたる天穂日命の裔・佐賀命の後、津刈命すなわち安日彦、または半日王の鎮座せし事は、岩木山神社、祭神・龍飛比売(たつぴひめ)命以下その伝説たる田光(たっぴ)沼、安国珠云々と関連して、津軽開闢の昔を語るものあり。

いずれも津軽に出雲の文化が伝えられたことを示している。この点については、出雲の方言が東北弁に似たズーズー弁であることにも関係していると考えられる。
富當雄も「出雲神族は、東北から出雲の地に西下してきた。そのとき津軽に残った人々や、神武東征時に追放された人々が、ナガスネ彦の話や出雲系の祭祀を伝えたのだろう」(『謎の出雲帝国』)と語っていた。

矢追日聖の伝える長髄彦像と富家の口伝を基にした長髄彦考

富當雄によれば長髄彦は富家の末裔であり、大国主は個人名ではなく役職名であり、一人ではなかったという。さらに、矢追日聖は「ナガスネ彦はナガソネ村のスメラミコトという意味ですから、数代にわたって何人もいました。しかし、神武帝に伏したナガスネ彦以後に、ナガスネ彦を名乗ったものはいません。位をゆずった時に、その資格がなくなってしまうからです」と語っている。
斎木雲州氏は『出雲と蘇我王国』の中で長脛彦についてこのように記している。

そののちヤマトでは、物部勢力がまずまず勢いを増し、磯城王朝のクニクル(考元)大王の御子・大彦が破れて、摂津国三島から琵琶湖の東岸に逃れた。 
日本書紀には、大彦を富ノ長脛彦と書いて、ヤマトでニギハヤヒが殺したと書いているが、誤りである。
磯城王朝はイズモの富王家の血を濃く受けているので、かれが「富」を名のったと、思われる。
かれの息子・狭狭城山君(ささきやまのきみ)は、この地に住み着いて佐々木氏となった。なおも攻撃された大彦は、出雲の向王家に来訪して加勢を求めた、と伝承されている。
3世紀に、日向にいる物部政権がイズモを攻めるという噂があったので、向家は大彦に助ける余力はないと、ことわった。
そのときまで、富家を名のっていた大彦に、以後は富家を名のらないように通告した。
大彦は始めに伊賀の敢国(あへこく)を地盤にしていたから、あへ家を名のり後に安倍家となった。大彦は摂津国の三島にいた時に、先祖の事代主を祭る三島神社を建てたことがあった。
大彦の子・タケヌナカワワケが伊豆に退去した時には、伊豆北端に三島の地名をつけ、三島神社を建て先祖の事代主を祭った。
富家は大彦にはイズモ国内の北陸の豪族を紹介し、北陸に行くことをすすめた。かれは北陸に退去した、と伝わる。大彦の北陸移住の子孫には、後で若狭(福井県)国造になった膳臣(高橋氏)や、高志(越後北部)国造になった道公(みちのきみ)家がある。

これらの情報を基に長髄彦について整理し、考証を進める。
斎木雲州氏の説明のように、北陸へ物部氏から逃れた大彦が『日本書紀』の富ノ長脛彦とのモデルであるとすれば、『秀真伝』にある高皇産霊神を筆頭とする天孫族から追放されたオオナムチは、大国主(富家)の末裔である大彦のことを記しているとも考えられる。「神武帝に伏したナガスネ彦以後に、ナガスネ彦を名乗ったものはいない」ということから考えると、磯城を治めていた大彦は長髄彦の末裔であったのかもしれないが、ナガスネ彦とは名乗らなかった。『古事記』には崇神天皇によって北陸に派遣された大彦と、関東・東北方面に派遣された息子の建沼河別が、各地方の平定後に落ち合った場所が相津(福島県の会津)であったと記されていることからも、大彦が治めていた地域は北陸のみではなく東北地方にも及んでいたと考えられる。東北へ渡った大彦は、長髄彦の末裔ではあったが長髄彦ではなかったため、『岩木山縁起』と『秀真伝』では長髄彦とは書かれず、富家の血脈の者としてオオナムジと記したのではないだろうか。『東日流外三郡誌』を含む『和田家文書』では、親出雲族であるアソベ族とツボケ族を中心とした津軽の人々に長髄彦の末裔と伝わっていたため、大彦ではなく長髄彦と書かかれることとなったのかもしれない。こう考えると『和田家文書』『岩木山縁起』『秀真伝』の記述もより深く繋がって見えてくる。
また、大彦の父、第八代孝元天皇は『東日流外三郡誌』では荒吐族とされている。さらに。竹内睦泰氏によれば帝皇日嗣極秘口伝でも「(ヒュウガ族は)何度も大和の地から撤退しなければならなかった」と伝わっているという。
一度は長髄彦(役職名)は神武に伏したが、長髄彦の末裔やその所領の人々の抵抗は続いていたため、神武の系統とは別のところから孝元天皇のように天皇(大王)となったケースがあったのかもしれない(『東日流外三郡誌』では、第五代孝昭天皇、第八代孝元天皇、第九代開化天皇は荒吐族とされている)。
そして、天皇家と藤原氏にとって都合の悪い歴史は隠蔽したい記紀の編纂者は、崇神天皇の力を大きく見せようと、実際には崇神の配下ではなく物部氏から逃れた大彦を、将軍の一人として遣わしたと記したのではないだろうか。
勿論、ここまで述べた内容に確証は無いが、このような仮説を立てることはできる。ここまでに参照した、歴史学の主流派には無視されている情報も、このように情報を整理し見直すことで見直され、今後、軽視されず広く注視されるようになることを願う。

ここまで3回に分けて書いてきた「『謎の津軽第二出雲王朝』読了後、改めて長髄彦と和田家文書について考える」は、これで一旦終わりとする。また関係する内容で書くこともあるかもしれないが、それはまた題を変えて書くこととする。

画像は安倍氏から派生した安東氏発祥の地、青森県藤崎町で私が撮影した岩木山。